こちらでは自らの太鼓活動で経験した出来事を面白おかしく掲載しています。m(_ _)m

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佐渡島上陸コラム  馬之介日記  私的太鼓空間〜第二章〜  


「ユニット」


マチュアが和太鼓を楽しむ手段として、やはり近所の太鼓チームに関わるのが一般的だと思います。新しい地域の伝統芸能として根付こうとする太鼓表現がこの十数年の流行だったのではないでしょうか?

鼓を使った創作音楽的要素の高まりで太鼓表現も多種多様化してきたと思います。当然、叩き手の考えも多種多様化してしかり・・・

東方面では名高いプロ奏者が時折ユニットを結成して活動されてる様です。それと単純に比べるものでは無いのですが、たまたま下手糞なアマチュア愛好者の私も、団体とは切り離した活動の機会に恵まれていました。初期の頃は、自分の表現したい太鼓表現を探す旅だったのかも知れないですが・・・

在、諸先輩方を目標に楽しく参加できる場所に落ちついているのですが、機会があれば可能な限り別の方々との表現の楽しみ方は勉強しつづけたいです。



和太鼓」と一口に言えども・・・


太鼓のHPを訪れる皆様は、何かしら和太鼓に関係する方だとは思います。
しかし、時折意見の食違いなり見解の相違が気になっていました。
私の身の回りに在る太鼓団体は、おおむね次の3つに分類できると聞いたことがあります。

1.地域の太鼓に関わる伝統芸能が基盤としてあり、そこから出発したグループ。
2.地域の文化おこしの発想から出発したグループ。
3.太鼓好きから出発したグループ。

こからは、個人的見解ですが・・・
「1」の表現においても時代と共に変化せざるを得ないのかな?とも思います。その芸能が発生した時代と現在受け入れられる世代にギャップがあるからです。
「2」に関しては、地方公共団体がバックアップしていて有名な演奏家に報酬を払い、楽曲提供と指導をお願いしてきたのではと容易に想像します。ゆえに、師の教えを忠実に守るのでは?
「3」においては、自己満足傾向が強く憧れてる太鼓団体のコピーに走る傾向にあると考察します。

(3つの事例とも、必ずしもこうで無いのは百も承知です。)

き方ひとつとってみても、有効な身体の使い方及び、効率の良い音の出し方のテクニックは在ります。しかし、不自然な身体の使い方とか、リズムの刻み方の中にも個性があるように思います。 知ってのとおり、全国には何千、あるいは何万の太鼓団体があるのではと考えますが、自然淘汰される過渡期にあるのでは?と危惧いたします。

名な伝統曲を演奏するのも良いでしょう。憧れのプロ集団の曲をコピーするのも良いでしょう。でも、この飽和状態の和太鼓の世界で最終的に受け入れられるのは、 「個性」のような気がしています。さらに、地域に根付くことも重要な要素でしょ う。

分達の「音」を追求する。このことを目標に掲げてるグループが魅力在る和太鼓奏者だと思います。

あくまで、私個人の意見ですが・・・。
皆様いかがでしょうか?

そうなことを申しましたが、上記事例の3種類とも身をもって経験してきた者の発言ですからお許し下さい。


「温故知新」〜無(mu)から夢(mu)の創造〜


日、地域に伝わる伝統芸能的な太鼓を見る機会に恵まれました。私の身の回りにそのような太鼓団体が無かったので実に新鮮でした。叩く姿も独特の味のある叩き方で、自分の携わっている太鼓の叩き方が恥ずかしく感じました。(本当に極めれば、それはそれで凄いんだけど)

「鼓童塾」に代表されるような太鼓教室が盛んに行なわれ、私も機会があれば積極的に参加したいのですが・・・、おおむね新しい太鼓団体の音楽表現は、師の姿に似て行くのかなと感じています。

作太鼓花盛りの昨今、まだまだ知られていないような伝統芸能が数多く埋もれているような気がします。私も時間の流れの中で有名な伝統曲も学びましたが、やはりその経験も生かしながら様々な表現手段を模索し、オリジナルにこだわりたいと思います。

きをたずね新しくを知る・・・その映像を提供していただいた知人に感謝。


「太鼓と私」


が三重県では、昨年「東紀州体験フェスタ」というのが催されました。そのオー プニングイベントの中で、林英哲氏作曲によります新曲 「道をゆく人」―熊野道に寄せて―の初演で成功を収めることが出来ました。 私が和太鼓にふれたのは’95年の初夏。地元の小さな創作太鼓チームです。およそ 1年の間、太鼓を叩くのが楽しくて、楽しくてどんどんのめり込みました。プロのコ ンサート、CD、ビデオを研究するようになり、歴史を勉強するようになり充実した 時間が流れていきました。しかし、太鼓を知るにつれて、すごく重大な出来事の当事 者になり損ねていたのです。

れは、去る’94年の三重県で催されました世界祝祭博で、今思えば神様の様な存 在の林英哲氏の指導のもと、三重県下の太鼓チームへの呼びかけで三重千人太鼓が結 成され、「千人響海山」という曲を演奏されていたのです。ショックでした。もう少 し早く和太鼓を知っていたらと後悔もしました。

ころが、インターネットをするようになり三重千人太鼓のHPを見つけ、アクセス したらなんと、活動を継続されていたのです。千人とまではいきませんが、100人 前後の選抜チームとして・・・。真先に、代表の方に連絡を取り、練習を見学させて いただき個人でも参加可能とのことで、すぐに登録(所属)させていただきました。 でも、皆さん5年もの間先の曲を演奏、練習されていて新人が入ったからといって、 私に指導していただける状況でないことは、すぐに理解できました。それで、イベン トでは裏方に周りお手伝いさせていただきました。

昨年の10月、三重千人太鼓の5周年記念イベントの時、代表の方より次の年に行なわれる三重県のイベントに向け、再び林英哲氏に新曲を依頼していて、今までのような 大勢で演奏する曲ではなく、少数での演奏をイメージしているとの話を聞きました。 そして、その練習からなら皆と同じスタートだから、叩ける様に頑張って下さいとの ことでした。

成11年4月18日
東紀州体験フェスタのオープニングイベントはじまりメッセにて、2人の英哲風雲の 会メンバーを含む20人による「道をゆく人」の演奏・・・。 その叩き手として、参加させていただきました。 林英哲氏の練習指導日には、仕事よりも、どんな用事よりも優先しまた。先輩の方々 にも良くしていただき独りでの参加のため、各チームでの自主練習ができないから と、声をかけていただき練習に参加させていただきました。

太鼓を続けていくことで触れ合える人間関係の素晴らしさ。 目標は、必ず実現できる。といったことを実感しました。和太鼓へのきっかけは、さ さいな事でした。でも今は、次々に新しい目標も出来てきましたから一生かけて向き 合いたいと考えています。


「雨に太鼓を打つ」ということ・・・


般論(?)では、高価な太鼓を雨に濡らしちゃだめなのは正論だと思う。

かし、目の前の聴衆とこの日の舞台のために練習してきた想いを途中から強くなった雨足に邪魔はさせたくなかった!リーダーをはじめ仲間もそうであったと思う。終演直前はどしゃ降りに近かったが、“続行”のGoサインが出た・・・というよりは、“中断”のサインを出そうとは考えていなかったようだ。結果は最高の気分で終われました。

だし、非常に残念なこともあった。「行く」と約束してた知人が、「雨が降りそうだったから行くのを止めた。普通雨が降ったら太鼓は叩かないでしょ?」とのこと。どこかで聴いてくれていると信じて疑わなかった私は、後日そのことを聞かされてショックでした。

は太鼓を打つ人間として、自己表現のためであり聴衆のためであり演奏します。本気の演奏は・・・、太鼓がわかる人はなおさら本気で聴きに来て欲しかったです。

る太鼓打ちが次のようなことをおっしゃいました。
「お客さんは一度しか出会えないかもしれん。太鼓は直せば使えるけどね。本当に大事なのは『太鼓が”どういうふうに”大事か?』という事やと思う。太鼓は高価やから、貴重やから大切なんじゃない。大切にしてると思い込む事が一番怖いとおもう。」

の方は、「いやもちろんお客さんが第一ですよ。雨なんてものはお客さんには関係ないし目の前にお客さんがいるのに中止するような真似は絶対できないですね。うちの会の頭いわく『物より人が大事』当然です。」

の大切な“想い”は、その知人には伝わらなかったようで・・・淋しい。

(勿論、いつもこのような状況とは限りませんが)


「伝統」とは・・・


元の辞書を紐解くと・・・
@系統・血筋を受け伝えること。また、その系統・血筋。
A前代から受け継がれた先人の経験・事業など、その社会の風習となって、さらにまた後人に強い影響を与えるもの。

然と「伝統」という言葉を使うが、私も良くわからず使っているかも知れません。それはそれとして、我が団体にも「伝統曲」と呼ぶにふさわしい曲が何曲かあります。その中でも別名「大漁太鼓」という、簡単に言えば海と漁港、そこに生きる海の男の心意気を表現した曲があります。おおよそ30年前に当時の音楽監督が作られた曲だそうです。

太鼓音楽盛んな昨今、ステージ用にと上級者がアレンジし直したものを演奏していますが、限りなく原曲に近い形で演奏することがありました。2尺ほどの大太鼓を斜め打ちで叩きました。虚弱体質(笑)の私には体力的にもたいへんで、出来る限りの努力をして本番に望みましたが、作曲者の想いが表現できたかどうか自信がありません。

そらく、原曲での演奏の機会は限りなく少ないような気がしますが、今回元の形を知ったことでアレンジされた形で叩く心構えのようなものが出来たのでは無いかと思います。

の地域に伝わる伝統曲を様々なアレンジを加え広く叩かれてると聞きます。また、自分もそのようなグループも経験してきました・・・。自分の身を置いた所のみで判断はしませんが、そこは目の前にある出演の機会に間に合わせるために安易にそのような曲を演目にしていました。

国に太鼓好きが溢れていますが、皆様々な地域性と環境の違いから太鼓に対する考え方も様々だと思います。それを踏まえた上でも自分達の「音」を模索する魅力に気付いて欲しいと個人的には願います・・・。

のようにして演奏表現される太鼓は、長い時間を経て自分達の「伝統」と呼ぶにふさわしいものになるのでは・・・。


「流派」ってなんぞや〜!?

本全国に何万という太鼓チームがあると聞くが、自分と同じような創作系の太鼓団体はどれぐらい存在するのでしょうか?結構多いのではないのかな?

は日頃、「流派」ってわけのわかったようなわからんような線引きのような気がしています。明確に「流派」を説明願えればありがたいのだが、独学では理解が不充分である。

えて自分勝手に創作の分野を強引にグループ分けしてるのだが・・・、いや会話の中でよく口にするのだが、「鼓童系」だとか、「一路テイストの曲調」とか区別して使ってる。時代の流れというものは・・・かつて「鼓童系」とおぼしきグループが破竹の勢いで誕生して行ったように、「一路テイスト」をちりばめた表現が急速に増えてきたのは事実だと思う。個人的に時勝矢さんの表現は大好きであるから全然嫌いではないのだが・・・。

「鬼太鼓座」&「鼓童」の功績はあまりにも大き過ぎる・・・。

祭の群衆の中で生きる創作太鼓。舞台芸能としての創作太鼓。そのどちらも兼ね添えようと言うのは贅沢かも知れないが、「関東一の太鼓まつり」を肌で感じて関東の意識の高さと、個性の強さを目の当たりにしている。目標は両方ともに、高ければ高いほどいいと思うが、自分達の等身大の太鼓表現を100%持続させることも忘れてはいけないのかもしれない。

達は師匠がいなかったので、上級者が創意工夫をしてきて今日があると聞きます。ゆえに、「流派」というものとは無縁で独自に進歩してきたのです。今となっては師が不在であったことが良かったのでしょうか・・・。


「楽譜には表せない音の色気?」


太鼓の曲に対する楽譜の必要性について、考え方は様々でしょうが楽譜を使い活動してる私としまして、今さら、いる?いらない?を論議することは致しませんm(_ _)m 。

譜には到底表せない表現は多々存在いたします。

ードするポジションの人が変われば微妙に曲も変化すると思います。本来の完成形がどこにあるのかわかりません。その曲を作調した者でさえ、状況に応じて臨機応変に音に色気を出します。

た、その変化を瞬時に察知し、自分のパートの音にも色気を出せれば最高なのでしょうが、私はその辺が実に下手糞です・・・ヽ(´o`;)ノ。

分が覚え演奏するパートを人に教えてる時に気づいたのですが、たまたまそのメンバーは楽譜に忠実に太鼓を叩いていました。それを聞いて、下手とは言いませんが全然面白くないのです。私でさえまだまだ下手ではあるのですが、何小節かのフレーズを塊で理解する必要性があると考えます。

ういった取り組みをしていると、このフレーズを作った人はどう聴かせたかったのかを考えることが出来、楽譜には表れてこない微妙な強弱が自然に表現出来るようになります。(本当かな〜?\(~_~;))

おむね、自分なりに噛み砕いて音が表現出来るようになると、次にやはり以前から申し上げてる様に、音を出しに行く前の腕の動きとか身体の動かし方が重要になってきます。

れもまた、完成形があるとは思いませんし当然、ポジションの人選により表現も違って当然だと考えます。あまり作調者のイメージにそぐわなければ練習時に注意されるでしょうから、特に注意がされなければ、まあまあOKなのだと思いこんでいます(笑)。

譜により練習することの弊害なのかな〜と思うこととして、キッチリ決められたことは上手く叩ける様になるのかも知れませんが、即興・・・いわゆるアドリブで叩く場面に対応する能力が損なわれるのかも知れません・・・。

あ、でも手順を覚えるまでが楽譜を見ながらの練習で、その後は表現を煮詰めるものだと思っていますけど?(当たり前ですね)

うですね・・・たまにはステージから離れて、筋書きの無いストリートパフォーマンスが個人的には好きですかね〜。o(≧∇≦)o


「始めに癖の無い叩き方を努力すべし!?」

と言うものは、なかなか抜けない様で苦労しています。

という手順が決まってるものを演じる時には、余計に統制美の妨げになってるように思います。なおかつ、私の場合は応用が利かない欠点のおまけ付き・・・6(-_・;)

礎練習において、下手さ加減が浮き彫りです。基本の上に後で癖を付けるのは簡単だそうです。私の場合、最初に所属した団体で指導を受けた叩き方がなかなか抜けないので困ったものです。

ころ変われば、良かったとされた叩き方も悪い癖となるし、個性も時には邪魔なものだと思います。現団体の指導者は全面的に信頼も置けますから、変な癖は悪いものとして理解は出来ています。しかし、身体に覚えたものが抜けきらないんですよね〜。

ロ奏者で無い限り、また絶対的な技術が伴なわない以上は、団体の表現方法を理解し演奏できなければいけないと思います。

「個性」という言葉の捕らえ方は様々でしょうが、私の好きな太鼓表現は組太鼓でのアンサンブルですから、変な癖【ニアリーイコール】個性は、あまり意味がないもののようです。(書いてて難し過ぎたかな・・・)


「多面打ちへの、は〜じめ〜のい〜っぽ!」

近、2基の締め太鼓を使った基礎練習を試しています。

に並付け、左に三丁。テンポの頭にくる音で面を変えるのは比較的やさしいんですが、裏の音で変えるのがまったく出来ません!ヽ(´o`;)ノ

基の締め太鼓で悪戦苦闘していますから、いかに英哲さんや一路さんが凄いのか・・・。交流をさせていただいてる太鼓仲間にも、2基から3基を上手く演奏してる方がみえて羨ましい限りです。ただし、音程の違いを積極的に叩かれてる方は少ないようにも思います。

かし、私は全然イケてないから悔しいですね〜。

“千里の道も一歩から”ですかね〜ъ( ゚ー^)


「絶対テンポ感?」

は、27才で太鼓音楽の扉を開くまで“音楽”と言うものに縁がなかった。それは、自分が演奏する側で取り組んだ経験の有無を意味します。

のような経験のある太鼓奏者との“差”も感じていて、埋め尽くせない虚脱感さえ覚えます。

敬する時勝矢一路さんは、「絶対音感」をお持ちだと聞きました。その他のプロの太鼓奏者、アマチュア奏者の中にも同じ能力をお持ちの方はいらっしゃるはずです。

う頑張っても私はかないません・・・。

感が優れてれば、音の違いを利用した旋律を奏でるような太鼓を叩くことも容易なのではないでしょうか?一路さんや英哲さんの多面打ちは圧巻です。なかなか身につけられるとは思えません。

「絶対音感」は、幼少期に訓練すれば容易に身につけられた能力だと聞きました。ドラムセットの様に太鼓を並べて、旋律を意識した演奏をするなら是非欲しかった能力ですが、今は「絶対テンポ感」が欲しいです。そのような言葉の存在すら自信はありませんが、イメージは理解していただけるのではないでしょうか(笑)?

楽センスに秀でた奏者との“差”を少しでも縮めることは可能なのだろうか?

理かもしれないが近づく努力は続けたいですね〜。具体的にどのような方法があるのかわかりませんが、今は上級者から指導されることをひとつひとつ、少しでも上手く表現できるような打ち手に成りたいです。


「ニの字かな、八の字かな・・・?」

鼓の面に差し出した腕の形を悩まれたことはありませんか?

が最初所属したところは「ニの字」流(笑)でした。鼓童塾経験者の話とか近藤克次太鼓塾を経験した私は、「八の字」を知りました。(そんなたいそうなことじゃないけど・・・)

現する太鼓で違って当然ですよ(もう耳にタコ状態ですね)。「ニの字」を基本に演奏する姿を観たとき、少し猫背気味に太鼓に覆い被さる様に叩く演目であったり、早いテンポでドコドコ叩いたり、激しい動きがその後加わったり・・・。

分が現在所属するところを含め、新しい創作太鼓集団では「八の字」というよりは自然体が多いように感じます。自然にバチを握り前に差し出せば、バチ先は内側を向くと思います。立ち位置を決め腰を落としリラックスすれば、自然に脇の下も空間が出来腕も自然な曲線を描いて伸びるように思います。

心者にありがちな些細な悩みかな〜。事実私も悩んだうちの一人です、ハイ。

を演奏して自分達の表現を楽しむようになれば、「ニ」だろうが「八」だろうが関係無くなる様にも思いますね〜。(*^-^*)


「バチのサイズは?」


号か前の「たいころじい」に科学的な腕の振りの記事が載っていたように思うが、詳しく読んだ記憶が無い(笑)。ということで得意の経験談でのお話。

現する太鼓でバチのサイズは違って当然ですよね。今の私のグループではバチは個人の好みで長く重い人もいれば、軽いのを好む人がいます。自分の体力とか手の大きさなんかでも微妙に好みが違いますよね。

般的な中太鼓の立ち打ちで私の場合、太鼓との位置関係(自分の腰を据えた叩くポジションで腕を伸ばした距離)、かつ「芯のある音」を考慮するとおおむね長さが決まります。難しく考えれば力学的に適したサイズがはじき出されるのかも知れませんが、ハッキリいってだいたいです(爆)。

れと、苦手な素材はありますね〜。檜葉のバチは折れやすく嫌いです。最近でこそ檜葉でも折らなくなりましたが、檜が一番好きです。不器用な為自分で削ることはほとんどしませんが、ほど良いサイズのバチを知人に薦められて以来愛用しています。

手で折ることも少なくなりました。長く愛用したバチがくたびれて、くたびれて疲労で骨折するのは気持ちが良いと思えるようになりました。私は現在これまで折ったバチを保存しています。「バチ供養」なるものをしようかとストックしてるのだが・・・、どうすれば良いのでしょうね?

輩の中には、折れたバチはさっさとゴミ箱に捨てる人もいますが、小心者の私にはそんな豪快なことが出来ません(笑)。


「得意技はバチ飛ばし!」


は、太鼓の演奏は下手糞だが予備バチへの交換は上手くなりました。今はほとんど交換しなくなりましたが、演奏中に折るというよりはすっ飛ばすことが多かったので、何事も無かった様にもう1本のバチを拾い上げ演奏を続けます(笑)。

前は、練習中に大きな振りのあまり隣のメンバーを殴ってしまったり、飛ばしたバチで迷惑かけたりしていました。

奏で観客を悩殺する前に、メンバーを撲殺しそうで恐かった(爆)。

る日の本番でのこと、演奏の始めの方でバチを飛ばしてしまい予備バチに・・・しかし演奏はまだまだつづき、もう一度飛ばすようなことがあればどうしようとハラハラしましたが、なんとか無事に演奏し終わることができたこともありました。

となっては、良い想い出です。ъ( ゚ー^)


「引きのテクニック?」の巻。


の文章を書いてて思い出したことがありました。「八丈太鼓」に代表される櫓の横打ちを練習した時に感じたことです。

式な八丈はまだ学んだ経験はありませんが、3拍子の基礎打ちを教わったことがありました。(これを読んでてご教授いただける方がいらっしゃれば幸いなのですが、こんなマイナーページ観てないか・・・)

えば右打ちの際、右左左、右左左・・・とスローテンポでは何とかなるのですが、テンポが速くなるともうたいへん!(**)

が教わったのは、右を打ちこんだ瞬間左腕は、次の音のために胸の前に準備されます。そして、ひとつめの左を打ちこんだ瞬間右は後方に・・・つづく左は脇の下に振りかぶりふたつめの左の音。と繰り返されるのですが、
最初の左を打ち終わった後の右手は遊んでいません(笑)。

体の後方に伸びた後、左二発の時間に次の右の音の為に滞空時間を利用して、位置エネルギー(?)を高めるための動きとして8の字の軌道を描きます。(本当か?自分ではこのように理解してますm(_ _)m 自信はありません。)

らに、左腕の軌道と身体の前後の動きも加わるのですが・・・。

が言いたいのか解らなくなりそうなので、そろそろ締めたいと思います(笑)。

まりは、立ち打ちにおいての滞空時間の使い方は単純なようで難しく、表現する太鼓によっても、創作太鼓のグループによっても、また曲目によっても様々だと考えられます。

の壁の存在に直面した私は頑張らねば!ということで・・・、上手くまとまったかな?


「打ちこんでない方の手はどうするの?」の巻。

「打ちこみ」練習ってしてきましたか?
私はこのページで「普通はこうだ!」とか「本来こう叩くべきだ!」なんて、結論をひとつに限定するつもりはさらさらありません。

え〜と、結構太鼓の表面の音だけを使った演奏も観たことがあります。振りとか動きを主体に表現されていて、あまり芯のある音まで追求していないように思えました。このような太鼓がダメかと言えばそうは思いません。個性的で素晴らしい演奏でした。ただ現在私が取り組んでいます創作和太鼓では、“芯のある音”も要求されますし、激しい動きこそありませんが“振り”も重要としています。

日、普段のテンポよりもかなり遅く“音”と“振り”とを意識した練習をしましたが、私はぜんぜん下手糞で上級者と比べていい加減な動きをしていました。それでも普通のテンポでは同じように見えて、それほど可笑しくはないのです。今世紀最後にして最大の自分に課せられたテーマだと思います(笑)。なかなか染み付いた癖は修正しにくく困っています。

「打ちこみ」を経験されてれば、おおむね良い音を出す感触は理解されてると思います。では、激しい曲の最中の欲しい“音”を出す時の感触はどうですか?比較的スローテンポの曲の時はいかがですか?打ちこみ練習とか教科書どおりには必ずしもいかないはずです。

を出しにいっていない別の腕はどう動くべきなのでしょうか???

に欲しい音のために効率の良い動きをすべきなのでしょうが、なかなか口にするほど容易ではありません。他のメンバーとの統制美も要求されますしね・・・。

のある音が欲しければ真上にまっすぐ上げた腕を直線的に打ち下ろせばいいのでしょうが、人によって染み付いた癖が違います。特に私は他所から今の団体に来ましたからなかなか苦労しています。細かく分析すれば頭に上がるまでの腕の滞空時間も違う様で・・・。間の使い方とでも言えばいいのか下手糞なんですよね・・・。

係者が撮影していただいたビデオを観ると、上げた手が次の音を出すため下がり始めたときの動きが汚いんです。鞭の様にしならせるとは言いますが、私はしならせ方にも無駄が多いようにも感じました。

がまとまりませんが、まあ〜練習あるのみでしょうね。(ハ〜)

や〜番外編とは大違い、真面目に語ってしまいますね〜。

    
     太鼓そっちのけで、番外編!\(~_~;)


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